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想い出の「たまでん」
玉電の歴史〜開通から玉川線廃止まで〜
世田谷に初めて鉄道が通ったのは、明治40年のことでした。以来昭和44年5月の玉川・砧線廃止までの約60年間の歴史を文章と年表でまとめました。
玉電の歴代車両たち
開通当初に活躍したオープンデッキの木造4軸単車から、昭和30年に当時最先端の技術で超軽量・超低床を実現し、その愛らしいスタイルから「ぺこちゃん」の愛称が付けられたデハ200形車両まで、玉電で活躍した歴代車両を紹介しています。
■「たまでん」のいま
廃止から30年以上を経た路線跡や沿線の様子などを散策し、まとめました。

↑玉電路線の推移

世田谷線は昭和44年5月10日まで、現在の田園都市線の区間である渋谷〜二子玉川園間の玉川線の支線でした。この他、免許上では鉄道線であったものの実際は玉川線の車両で運転されていた砧線の二子玉川園〜砧本村間、そしてを合わせて、通称「玉電」の名前で親しまれ、明治40年の開通以来、約60年間に渡って地域の足として活躍しました。この他、過去には大井町線に編入された二子玉川〜溝ノ口間、都電となった渋谷〜天現寺・中目黒間も玉電の一部として運行されていました。
ここでは、玉電時代に活躍した車両や、開通から玉川線廃止までの60年間にも渡る歴史、そして、廃止されて30年以上が経った現在の沿線の様子などを掲載しています。


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1998年8月28日開設